パウロがコリントの教会に宛てて書いた手紙の冒頭には、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」と分裂する人々の姿が描かれています(1コリント1:12)。それは、まるで自分の属する「信仰グループ」に誇りを持ち、他と競い合うような在り方でした。
この姿は、現代の教会にも通じるものがあるように思います。たとえどれほど優れた牧師であっても、その牧師が引退した途端に人々が教会を離れてしまうなら、それは果たして健やかな牧会だったのだろうか――そんな問いが浮かびます。
その人たちは、キリストに繋がっていたのではなく、牧師に繋がっていたのかもしれません。
牧師の役割とは、人々を自分に結びつけることではなく、キリストに結びつけること。牧師を通して福音に触れたとしても、最終的には一人ひとりが、牧師を介さずにキリストと繋がるように導かれていくべきなのだと思います。
これは、親子の信仰継承にも似ています。親の力で子どもを教会に連れて行くことはできても、やがて子が自立すれば、親の信仰とは別に、自分自身の信仰が問われるようになります。親の信仰はきっかけであっても、信じることはその人自身と神との関係の中で起こることです。
正直に言えば、僕は「自分の牧会によって人をキリストに導ける」などと思うことそのものが傲慢なのではないか、と感じることもあります。人を救うことも、信仰を根付かせることも、すべては神のなさることです。
けれども、それでも願わくは――
僕の語る言葉や、関わる在り方を通して、人々がキリストに繋がるようになってほしい。
僕の魅力や能力ではなく、ただキリストが現れ、キリストに惹かれる信仰が育っていってほしい。
それが僕の心からの牧会の願いです。
それがわかるのは僕が引退してからなんだろうと思ったのです。

